映画「コンタクト」感想

映画「コンタクト」は、1997年のアメリカ映画で、僕が大好きな映画の1つです。

なお原作は読んでいません。

 

以下、ネタバレ注意です。

 

 

 

 

ジャンルとしてはSFなのですが、スターウォーズのようなガチガチのSFといった感じではなく、舞台は同時期のアメリカです。

1977年の「Wow!シグナル」という現実に起きた地球外知的生命体探査での出来事を元ネタとしているようです。

 

あらすじとしては、ざっくりいうと、女性天文学者が地球外知的生命体探査を行っていたときに強い電波信号を探知し、その信号を解析していくと、ある機械の設計図であることがわかり・・・というものです。

 

さて、このコンタクトですがその魅力は「現実で同じことが起こったらこんな感じだろうなあ」と思わせるリアル感だと思います。

実際、当時のクリントン大統領を映像技術を駆使して登場させていました。

 

また、秘密を解き明かす系の展開でありそうな陰謀のようなものもなく、国家から排除されてピンチに陥る・・・なんてこともありません。

むしろ、国のお偉いさんが「何かあったら大統領が判断します。ただしあなたのプロジェクトであることを鑑み、引き続きチームの指揮にあたってください」的な、現実にありそうな、いかにも政治らしい周囲に配慮したことを言ったりします。

 

ただ惜しかったのは最後に出てくる謎日本です。

電波信号を解析して、そこに書かれていた設計図を基に作り上げた機械が過激派によって壊されてしまい、計画頓挫と思われた矢先、実は北海道に2台目を建設していた、という経緯で主人公が北海道に行くのですが、なぜか部屋には鏡餅、主人公は白装束という、全く雰囲気に合わないステレオタイプな日本が登場するのです。

正直その直後の恋人とのシーンは盛り下がりましたね。

しかも登場する日本人もやたら機械的で、なぜか「H」のマークをあしらったヘルメットを被っていました。北海道庁の職員なのでしょうか?笑

 

とはいえ、気になったのはこの点だけで全体で見ると素晴らしいことは変わりありません。

 

特に僕が興味深いなと思った登場人物は、主人公の元ボス?であり、大統領の科学顧問兼科学技術財団のトップであるドラムリン博士です。

 

彼は主人公の科学への思い、特に地球外知的生命体探査に否定的で、科学は日常に役立つべきだと主張します。

そのため主人公たちが取り掛かっていたプロジェクトへの予算をカットし、彼らを路頭に迷わせたかと思いきや、電波信号を発見するとその手柄を自分のものにするなど、典型的な悪者として登場します。

 

しかし、彼は実は地球外知的生命体探査に憧れていたのではないかと思っています。

 

まず第一に、彼は劇中で電波信号の発信源が地球外知的生命体である可能性を一切否定していません。

むしろ電波信号をテレビに受信させ、画面が砂嵐状態になり「なんだこれは?」とみんなが困惑していたときなどは、さっそうと的確な助言をし、ヒトラーの映像であると解明したばかりでなく、その直前には電波信号を受信し続けるために外国の天文台に協力を頼んだ主人公の行動が、安全保障の担当者からとがめられた際には主人公をかばう発言までしています。

本当に地球外知的生命体に否定的な人物なのであれば、電波信号の報告があってもそんなの偶然だ、とかで一度くらい流してもよさそうです。

 

その後の展開でも彼は終始電波信号の解明を主導します。そのときの彼は非常にいきいきしていて、主人公の手柄を横取りするような行動も、はりきり過ぎてしまった結果に思えるほどです(言い過ぎか?)。

 

挙句には、地位を捨ててまで命の危険が伴う得体の知れない宇宙人に会えるところまで飛ばしてくれると思われる機械の乗組員に立候補する始末。

地球外知的生命体に会いたくて会いたくて仕方がないのだと見受けました。

 

本当に手柄を横取りしようとするほど地位や権力に固執する人物なら、わざわざ命を捨てる危険性を犯すわけがないと思うのです。

彼が乗組員に立候補した、と聞いたとき、僕は彼の地球外知的生命体に対する熱い思いを感じました。

 

このあたりって原作で描写されていたりするのでしょうか?

 

さて、乗組員の選考にあたり競争関係になった主人公とドラムリン

最終的には神への信仰心を巡ってドラムリンに軍配が上がります。神を信じないとした主人公は人類の代表にふさわしくないと判断されたのです。

ドラムリンは神を信じるとしたために選考に通ったわけですが、このことについて主人公は「あんなの上辺だけだ」と愚痴ります。

今まで予算をカットされたり手柄を横取りされたりしたのに、その上最後の最後まで主人公を邪魔するわけですから当然です。

 

しかしその後、訓練中にドラムリンと主人公が会話を交わしたシーンでは、主人公がドラムリンに「おめでとう博士」と笑顔でさわやかに祝うなど、一見良い関係のように見えました。

これはいわゆる社交辞令的な対応だったのでしょうが、このときドラムリンは次の言葉を述べます。

 

エリー、君が不公平に思っているのは知っている。大いに不満かもしれん。私だって公平な世の中になればいいと思ってる。君が委員会で見せた誠実さが利用されない世の中にね。だがこれが現実だ。

 

エリーとは主人公です。不公平、不満というのは、先の乗組員選考委員会で、エリーは神について(信じていないと)正直に話したのに、嘘をついて神を信じると言った彼が受かったことについてでしょう。

 

上記の言葉に対しエリーはこう返します。

 

おかしいわ。私たちが決意すれば世界は変わるのに。

 

ドラムリンが言った「不公平な世の中」「正直者がバカを見る世の中」というのは、おそらく大半の人が毛嫌いしているはずです。

誰もが公平で正しい人が報われる世界を望んでいるでしょう。これはドラムリンも同じです。

 

しかしそんな世の中を作っているのはそれを毛嫌いし、公平で良い世界を望んでいるはずの人々自身なのです。

なんとも矛盾していますが、確かに現実はドラムリンのいうとおりです。

ここで、ドラムリンの立ち位置が見えてきます。

 

彼はそんな世の中の体現者なのです。心の中では良い世界を望みつつ、現実を前に自ら不公平に振る舞う。心の中と矛盾した行動をする。

 

対してエリーは違います。

彼女は良い世界を望んでいるので、自分が正しいと信じるままに行動しています。内なる思いと行動に矛盾が無いのです。

 

ドラムリンがエリーに世の中の不公平さを話したのは、自分はそんな世の中だから仕方なく嘘をついたのだと、責任を世の中に転嫁し自己正当化を図るためです。

しかしこれは見方を変えると、彼の内面は本当は公平な世界を望む「良い人」なのだとも解釈できます。実際「公平な世の中を望んでる」と言っています。

エリーは彼のその言葉によって、彼の中に善を望む「純粋さ」を見出したのです。だからこそ、あとはその善を望む意思を行動に変えるという「決意」だけだという意味で、「私たち(我々人々)が決意すれば変わるのに」と言ったのです。

 

さて、これを物語の本筋に照らし合わせてみると、次のようになると思います。

 

善を望む心=純粋な科学の心=未知に対する好奇心=地球外知的生命体への探究心

 

エリーは、善を望む心のままに行動しているので、地球外知的生命体への探究心に従い、様々な苦難を乗り越えて地球外知的生命体を信じて研究しています。

 

同様にドラムリンも、内に善を望む心を持っているわけですから、彼は地球外知的生命体への探求心を持っているということになります。

 

しかし彼は現実には不公平を実行しているわけですから、その行動は地球外知的生命体に対して否定的なのであり、やたら「現実的な」日常に役立つ科学を標榜するわけなのです。

 

このように考えると、やはりドラムリンは、実は地球外知的生命体に興味津々であり、それが我慢できなくなったので命を懸けて乗組員に立候補した説が濃厚だと思うわけです笑

 

おそらくエリーも、彼の熱い思いの一端を見出したからこそ、オペレーターとなり彼を補佐するなど、ドラムリンに協力的になったのだと思います。

特にドラムリンが過激派のテロで死ぬシーンでは、彼の死を嘆き悲しんでいるようにもみえます。

 

さて、この映画ではエリーの恋人的立ち位置である宗教家の男が登場します。

どちらかというとその男との関係の方を主軸に展開するのですが笑

 

ドラムリンが死んだ後、エリーが乗組員となり、北海道に建設してあった2台目のマシーンで彼女は遥か遠いベガへ行き、宇宙人が扮する死んだお父さんと砂浜でウインドサーフィンをして、宇宙人から重要な啓示を受けて帰ってきます。

 

が、なんと地球上ではマシーンが発射してから帰ってくるまでの間はほんの一瞬に過ぎず、人々からはエリーが話す体験は夢幻の嘘であるとされてしまいます。

 

エリーは途方に暮れるのですが、宗教家の彼氏はそんなエリーをエスコートし、マスコミから「彼女を信じますか?」と聞かれ、取り囲む群衆やマスコミにこう言い放ちます。 

 

 

彼女とは科学と宗教という違いはあっても目指すものは同じ。真理の探究!

 

 

「真理の探究」これはこの映画の重要なテーマなのですが、しかし直後に続けて言います。

 

 

僕は彼女を信じる!

 

 

そう「信じる」。

これこそが実は重要なテーマの1つなのです。

 

エリー=善(地球外知的生命体を信じること)を信じること、そして実践(研究し続けること)すること。

これこそがこの映画の核心です。

 

「善を信じ、実践すること」

この言葉を発したのが宗教家であることはかなり示唆的だと思いませんか?

 

神を信じ、その教えを実践すること。

 

まさにこれと同じなのです。エリーのしていたことは。

だからこそエリーと彼は惹かれあったのです。

 

劇中でその宗教家、パーマーは「信仰の損失」という自身の著書についてのテレビに出演し、こう言っています。

 

 

確かに生活は便利になりました。しかしこれほど人々が孤立し孤独を感じている時代は他にありません。

我々は探しているのです、生きる意味を。

味気ない仕事、騒々しいだけのバケーション。

次から次へとカードで買い物をし、虚しさを紛らわそうとしている。

 

 

 これは、実は宇宙人を信じているけど、世の中がそんな馬鹿なこと許さないから、宇宙人への探究心を捨て(信仰の損失)、味気ない「日常に役立つ科学」を標榜せざるを得ないドラムリンの心境を表しているかのようです!笑

 

このようにドラムリンは孤独な現代人の象徴なわけです。

彼は劇中で乗組員に立候補することにより宇宙人への探究心(信仰心)を取り戻すわけですが、そのせいで死んでしまいます。

つまりドラムリンは殉教したということなのです。

 

このドラムリンの死によって、エリーはドラムリンに代わって乗組員となり 、ベガで宇宙人から重要な啓示を受けます。

その啓示とは「人類は孤独ではない」。

更に、乗組員になったことによってパーマーとの関係も改善し、エリー自身も孤独ではなくなったわけです。

劇中の言葉にもあるように、彼女はずっと変人扱いされながら1人で研究していて、お父さんもお母さんもいない。孤独だったのです。

 

この映画のストーリーは、エリーが孤独から脱することでもあったのです。

 

そして、エリーが孤独から脱するためにはドラムリンの死が不可欠でした。

つまりエリーはドラムリンの殉教によって救われたのです!

 

このように、この映画におけるドラムリンは、決して悪役ではありません。

コンタクトに対する感想は結構見かけますが、ドラムリンに着目したものを見たことはなかったので書いてみました。

彼の名誉回復を祈ります笑