大きな物語と小さな物語

宗教的価値や政治的価値(イデオロギー)など、社会全体を覆い尽くし、その動向を左右するような信念を「大きな物語」とします。

対して、個人個人の人生に焦点を当てた、個人的な生活を「小さな物語」とします。

 

基本的にはどちらの物語も歴史上並立していました。

ただし、石器時代のような文明が登場する以前の大昔は、おそらく小さな物語しかなかったでしょう。

文明が芽生え社会が形成されてくると「宗教」という、個人個人の間柄を超える大きな価値観が発生します(大きな物語)。

この大きな物語は、近代に入ると政治的価値や思想(イデオロギー)に置き換えられます。

 

イデオロギーの時代は、市民革命、共産主義帝国主義ファシズムなどが登場し、冷戦を経て国民国家・資本主義・自由民主主義が生き残りました。

 

このような「大きな物語」は、冷戦終結後、急速にその力を失います。特に先進国において顕著です。

「力」とは、損得抜きに個人をその物語の実現のために突き動かす力です。

かつては、宗教の教え、共産主義革命、自由、そして国家のために人々は死をも厭いませんでしたが、現在、それらのために個人を犠牲にできる人はだいぶ少ないでしょう。

それはもはや、人々が「大きな物語」を信じなくなっているからです。

 

人が自分の損得を超えた信念に突き動かされていたのはなぜでしょう?

思うに、その信念(物語)に「神聖さ」を感じていたからではないでしょうか。

宗教にしても共産主義にしても自由にしても、それが実現すれば理屈抜きに「自分は救われる」と信じていたのです。

宗教については、神を信じれば病気や災害等の厄災から守られると信じていたし、政治思想であれば、それが実現すれば豊かになれると信じていた。

自分を救ってくれるものは神々しいものであり、神聖なのです。

 

さらには、そのような「神聖なもの」のために己を犠牲にすることもまた神聖なのであり、名誉なこととされたので、仮に厄災から守られず、豊かにならなくても己を犠牲にするだけでその名誉によって救われたのです。

 

しかし時間が経つにつれて、いくら神を信じても、どんな政治体制が実現しても救われないどころか、そのために多くの人が無意味に死んでしまったと判明したために、それらの神聖さが失われ、人々はもう自分を犠牲にすることはなくなったわけです。

 

 

宗教がその神聖さを失い始めたは近代で、ヨーロッパを基準にすると18世紀後半頃、政治が神聖さを失ったのは、20世紀後半と考えます(冷戦終結が大きく影響しているでしょう)。

 

宗教はその形を道徳や形式的儀式に変え、政治は実生活のために利便を設計・提供するものに変わりました。

この変化は、人々が「大きな物語」に失望し、個人的な生活(小さな物語)を、重視し始めたことによります。

ただ、宗教については神を信じることで悲しみや悩みを解決する面があるために、国民国家・資本主義・自由民主主義については、それ以外の政治体制よりマシなので、まだある程度神聖さを保っていると思われます。しかしながら、特に後者は所得格差の拡大などによって近年徐々に色褪せつつあるでしょう。

 

この話は会社組織にも当てはまると思います。

かつては会社のために「つらい仕事を耐えること」は賞賛の対象であり名誉なことでしたが、近年ではそれに価値は見出されなくなりました。

その理由も「大きな物語」の崩壊によるものと思われますが、その話はまた書きたいと思います。