なぜ苦痛が神聖だと考えるのか

世の中には、苦痛を進んで受けようとすることを美徳とする風潮が一部にあります。

たとえば、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というような、概ね「苦痛を耐えることで成長する」という主旨の教えです。

もちろん、技術の向上には努力が必要ですが、努力は苦痛とは限りません。努力が苦痛と感じたら、その技術には向いていないでしょう。

 

しかしこれを反転させ、苦痛こそ努力と思い込んでしまう場合があります。

これは、「苦痛が人を成長させる」という先入観があるからと考えます。

実際はもちろん、苦痛そのものではなく訓練が成長(技術の向上)させます。苦痛はあくまでも訓練に伴う副作用なのです。

しかし苦痛がない訓練は訓練と見なされないことが往々にしてあります。そのために苦痛を軽減したより効率的なやり方が拒絶されるのです。

「良薬は口に苦し」を信じ込み、たとえ同じ効能の甘い薬が開発されても、苦味がないと効く薬だと見なさないようなものです。

 

なぜ苦痛が重要視されてしまったのでしょうか?

僕はこれを仏教における「苦行」の信仰を引きずっているためと思います。

 

苦行は、仏教の祖先となった古代インド哲学の考えにその源があります。

その考えとは「自分とは何か」という思索から始まるのですが、要は「自分」とは「認識するもの」であって、色々な感覚(痛みや悲しみなどなど)は、「認識されるもの」であって「自分」とは切り離されたものである、というものです。

これが仏教に発展し、「痛みや悲しみにも左右されない心境になること」、つまり「解脱」として神聖な至るべき境地とされたのです。

 

この考えがどんどんあらぬ方向に展開し、「いかなる苦痛にも耐えることができる」ということが「解脱」していることの証左とされ、「苦痛に耐えること」が神聖なこととされてしまい、誰もが苦痛を求め、自分こそ解脱した者であると競い合ってしまったのです。

これが苦痛こそ神聖とされた理由なのです。

 

なお、この「苦痛耐久競争」は、ブッダにより「苦痛は何ももたらさない」と否定されます。

痛みから逃れようとすることや、悲しくて泣いてしまうこと、嫌なことがあって落ち込んでしまうこと、などの反応は、脳や身体機能の当然の反応であるとしました。

 

しかしながらこの「苦行」の信仰はブッダの意に反して脈々と受け継がれ、現代日本にもしっかりと根付いています。

 

彼らは苦痛(と一般的に考えられるもの)に耐えることが立派なことだと思っているので、楽をしている(ように見える)人を軽蔑します。

時には大したことないことも苦痛なことに見せかけますが、それが礼儀となっています。

相手も苦痛に耐えていると想定してやるのが礼儀なのです(お忙しいところすみませんが、と付けることや、大変ですねぇと労うことなど)。

 

日本の長時間労働や無駄に厳しい姿勢などは、このようにお互いが「苦痛に耐えている」と張り合うことにより強化、定着してしまったものと考えます。

 

もちろん、生きている限りは避けようのない副作用的な苦痛に耐える必要はあるのですけれども。