働き方改革は自由の問題である

「働き方改革」は、長時間労働の是正や生産性向上の掛け声とともに推進されています。

基本的に間違ってはいないと思いますが、僕は少し違和感を持っています。

 それは推進理由です。

健康、効率性、子育て、消費喚起等々ありますが、どれもこれもピンときません。

健康と言っても、確かにめちゃくちゃな働き方をすれば健康を崩すこともあるでしょうが、残業80時間程度なら大半の人はやろうと思えばでき、体を壊さない程度なら長時間働いてよし、となります。また、効率性の観点から言っても、そもそも測定方法があいまいですし、じゃあ「効率よく長く働け」と企業は言うでしょう。消費喚起も、では消費が十分なら長く働いてもいいの?となります。子育てについても、同じです。

このように今言われている働き方改革の理由はどれもサブ的なものに過ぎず十分な理由ではないのです。

働き方改革を求める声は、要はもっと自由で豊かで、楽な生活がしたいという欲求なのです。それをストレートに言えず、わざわざもっともらしい理由を付けねばならないところに、劣悪な労働環境を生んだ理由があるのです。

 

法的な意味で言えば、働き方改革はすでに達成されていますが、なぜ法が守られていないのか。それは人々の意識が追いついていないからです。

 

人類の歴史のほとんどはモノが欠乏していました(需要が供給を大幅に上回っていた)。

そのため、人々は必死に生産活動(労働)をしなければ生きていけなかったのです。このことから、勤勉は奨励され、美徳とされたのです。ちなみに勤勉は世界中どこでも美徳です。日本だけではありません(以前、当時のアメリカのブッシュ大統領が、仕事を二つ掛け持つ母親を「アメリカ人の鑑だ!」と賞賛していました。)

裏を返せば、勤勉が美徳になるほど勤勉な人というのは少なかったのです。

これは日本人でも同じで、現に江戸時代や明治初期に来日した外国人からは、日本人は怠け者だという記録が多く見つかります。

仕事中に酒を飲む、見張りもじっとしていられない等々

それが明治時代、欧米に追いつくために生産の向上が奨励され、そこで日本人に勤勉さが叩き込まれたのです。とはいえ当初は政府による奨励に過ぎなかったので、多少の効果はあれど、それほど徹底はしませんでした。

しかし第二次大戦を経て本当に「生産しなければ死ぬ」レベルに達し、勤勉さは、奨励から道徳に、道徳から義務に、義務から常識に強化されていったのです。

さらに、経済のグローバル化により経営者等の支配階層の力が強まり、このような労働者の負担が大きくなる方向性に拍車がかかりました。

そしてついには「定時で帰ると気まずい」「残業代をつけづらい」等、無意識下レベルまでに落とし込まれてしまったのです。

そして自由は失われました。

 

このプロセスは日本に限ったものではありません。かつては欧米でも労働環境は劣悪だったのです。しかし彼らは権利を勝ち取りました。

欧米を範とする日本にもその権利は持ち込まれましたが、いかんせん人々の意識はまだ追いついていません。

 

経営者はより少ない報酬で多く働く労働者を求め、労働者はより多い報酬で少なく働くことを求めます。

その思惑のせめぎあいにより待遇が概ね定まってくるわけで、その闘争の場が政治なのです。

理由なんてものはどうとでも付けられるので、「なにが論理的に正しいのか」というのはそこまで重要ではなく、要は権力闘争です。

 

経営者は政治力や経済力を武器にしますが、労働者は数を武器にするしかありません。

 

働き方改革は、どのくらい自由が欲しいかという労働者の意思によって左右されるのです。