大きな物語と小さな物語
宗教的価値や政治的価値(イデオロギー)など、社会全体を覆い尽くし、その動向を左右するような信念を「大きな物語」とします。
対して、個人個人の人生に焦点を当てた、個人的な生活を「小さな物語」とします。
基本的にはどちらの物語も歴史上並立していました。
ただし、石器時代のような文明が登場する以前の大昔は、おそらく小さな物語しかなかったでしょう。
文明が芽生え社会が形成されてくると「宗教」という、個人個人の間柄を超える大きな価値観が発生します(大きな物語)。
この大きな物語は、近代に入ると政治的価値や思想(イデオロギー)に置き換えられます。
イデオロギーの時代は、市民革命、共産主義、帝国主義、ファシズムなどが登場し、冷戦を経て国民国家・資本主義・自由民主主義が生き残りました。
このような「大きな物語」は、冷戦終結後、急速にその力を失います。特に先進国において顕著です。
「力」とは、損得抜きに個人をその物語の実現のために突き動かす力です。
かつては、宗教の教え、共産主義革命、自由、そして国家のために人々は死をも厭いませんでしたが、現在、それらのために個人を犠牲にできる人はだいぶ少ないでしょう。
それはもはや、人々が「大きな物語」を信じなくなっているからです。
人が自分の損得を超えた信念に突き動かされていたのはなぜでしょう?
思うに、その信念(物語)に「神聖さ」を感じていたからではないでしょうか。
宗教にしても共産主義にしても自由にしても、それが実現すれば理屈抜きに「自分は救われる」と信じていたのです。
宗教については、神を信じれば病気や災害等の厄災から守られると信じていたし、政治思想であれば、それが実現すれば豊かになれると信じていた。
自分を救ってくれるものは神々しいものであり、神聖なのです。
さらには、そのような「神聖なもの」のために己を犠牲にすることもまた神聖なのであり、名誉なこととされたので、仮に厄災から守られず、豊かにならなくても己を犠牲にするだけでその名誉によって救われたのです。
しかし時間が経つにつれて、いくら神を信じても、どんな政治体制が実現しても救われないどころか、そのために多くの人が無意味に死んでしまったと判明したために、それらの神聖さが失われ、人々はもう自分を犠牲にすることはなくなったわけです。
宗教がその神聖さを失い始めたは近代で、ヨーロッパを基準にすると18世紀後半頃、政治が神聖さを失ったのは、20世紀後半と考えます(冷戦終結が大きく影響しているでしょう)。
宗教はその形を道徳や形式的儀式に変え、政治は実生活のために利便を設計・提供するものに変わりました。
この変化は、人々が「大きな物語」に失望し、個人的な生活(小さな物語)を、重視し始めたことによります。
ただ、宗教については神を信じることで悲しみや悩みを解決する面があるために、国民国家・資本主義・自由民主主義については、それ以外の政治体制よりマシなので、まだある程度神聖さを保っていると思われます。しかしながら、特に後者は所得格差の拡大などによって近年徐々に色褪せつつあるでしょう。
この話は会社組織にも当てはまると思います。
かつては会社のために「つらい仕事を耐えること」は賞賛の対象であり名誉なことでしたが、近年ではそれに価値は見出されなくなりました。
その理由も「大きな物語」の崩壊によるものと思われますが、その話はまた書きたいと思います。
地方分権の形と意識
さて、以前地方分権について思うところをちょろっと書いたのですが、その続きを。
この国の行政は、国、都道府県、市町村という3層構造になっています。
多くの事務の場合、国が基本指針を決め、それに則り各自治体が具体の計画を定めて実施します。計画策定や実施主体が、都道府県なのか市町村なのかはその事務により異なりますが、概ねこんなものです。
お金が絡む助成事業の場合も、多くは国のお金が1/2とか1/3の割合で入っていて、都道府県や市町村の単独事業というのは、あっても小規模なものや補完的なものなのです。
つまり今の行政は、地方分権といって権限を委譲しても根幹には国の方針があるため、実態としては自治体が国の出先機関の役割を果たすようになるに過ぎないのです。
財源についても、現状では自治体は自主財源が少なく、何か事業を行おうとすると国からの補助がなければ厳しいです。
僕もかつて自治体で働いていたとき、自治体の自主財源(一般財源)を使ういくつかの事業を新しく行おうとしたことがあるのですが、極めて難しかったです。というか無理でした。
財政部署があの手この手で次から次へと資料を要求し、最終的には挫折に追い込むのです。
もちろん彼らも上に説明しなければならないので厳しくなるのでしょうが・・・。
要求される側としては、ほとんど嫌がらせのように感じました。
逆に言えば自治体の財政力というのはそのくらいなのです。
ちなみに、自治体固有の財源とされ、使い道が限定されない一般財源として扱われるとされる「地方交付税交付金」ですが、実際はそうでもないケースもあります。
この交付金は国が各自治体で必要な経費を算出して交付金額を弾き出します。
つまり積算で使用した「想定される使途」があるのです。
なので、財政部署から「あなたがやろうとしている事業に係る経費が地方交付税交付金に含まれているか調べなさい。なければ却下」と言われたり、「現状でこの事業経費に係る交付金の上限を使っているので、これ以上の事業拡大は無理」と言われたりするのです。
基本姿勢が「自治体の方針や考え方に合わせて事業を行う」ではなく「国がお金を出してくれる(国がそれを行うことを認めている)から、事業を行う」というものなのです。
これでは本当に自治体は国の出先機関と変わらないように思いませんか。
というか、長い中央集権の歴史で、機関委任事務など、本当に国の出先機関としての役割を長い間果たしていた自治体は、その体制も考え方もすっかりそれに染まってしまっているのです。
とはいえ、このような現状のおかげで、日本全国ある程度均質な行政が実施されているという面もあるのですが。
仮に国から自治体に財源を委譲しまくり、完全に自治体の自主財源のみで行政を行うようにすると、大都市と地方で激しい格差が生じてしまうでしょう。
要はバランスなのですが、どのくらいが良いのかという議論は正直難しいです。
僕個人としては、自治体職員がもう少し自治の意識を持った方がいいのかなと思います(僕が勤めていたときのことしか知らないのですが)。現状の権限と財源に比して、自治体職員の自治の意識は低いと思います。地方分権の形が先行して、意識が追いついていないのです。
しかし自治を行うには自治体職員の能力に問題があります。
現状だと、仮に自治体にいくら権限と財源があっても良質な行政を行うことはできないでしょう。
むしろ国の庇護が薄くなることにより劣化すると思います。
自治体職員の能力の問題については、また書きたいと思います。
映画「コンタクト」感想
映画「コンタクト」は、1997年のアメリカ映画で、僕が大好きな映画の1つです。
なお原作は読んでいません。
以下、ネタバレ注意です。
ジャンルとしてはSFなのですが、スターウォーズのようなガチガチのSFといった感じではなく、舞台は同時期のアメリカです。
1977年の「Wow!シグナル」という現実に起きた地球外知的生命体探査での出来事を元ネタとしているようです。
あらすじとしては、ざっくりいうと、女性天文学者が地球外知的生命体探査を行っていたときに強い電波信号を探知し、その信号を解析していくと、ある機械の設計図であることがわかり・・・というものです。
さて、このコンタクトですがその魅力は「現実で同じことが起こったらこんな感じだろうなあ」と思わせるリアル感だと思います。
実際、当時のクリントン大統領を映像技術を駆使して登場させていました。
また、秘密を解き明かす系の展開でありそうな陰謀のようなものもなく、国家から排除されてピンチに陥る・・・なんてこともありません。
むしろ、国のお偉いさんが「何かあったら大統領が判断します。ただしあなたのプロジェクトであることを鑑み、引き続きチームの指揮にあたってください」的な、現実にありそうな、いかにも政治らしい周囲に配慮したことを言ったりします。
ただ惜しかったのは最後に出てくる謎日本です。
電波信号を解析して、そこに書かれていた設計図を基に作り上げた機械が過激派によって壊されてしまい、計画頓挫と思われた矢先、実は北海道に2台目を建設していた、という経緯で主人公が北海道に行くのですが、なぜか部屋には鏡餅、主人公は白装束という、全く雰囲気に合わないステレオタイプな日本が登場するのです。
正直その直後の恋人とのシーンは盛り下がりましたね。
しかも登場する日本人もやたら機械的で、なぜか「H」のマークをあしらったヘルメットを被っていました。北海道庁の職員なのでしょうか?笑
とはいえ、気になったのはこの点だけで全体で見ると素晴らしいことは変わりありません。
特に僕が興味深いなと思った登場人物は、主人公の元ボス?であり、大統領の科学顧問兼科学技術財団のトップであるドラムリン博士です。
彼は主人公の科学への思い、特に地球外知的生命体探査に否定的で、科学は日常に役立つべきだと主張します。
そのため主人公たちが取り掛かっていたプロジェクトへの予算をカットし、彼らを路頭に迷わせたかと思いきや、電波信号を発見するとその手柄を自分のものにするなど、典型的な悪者として登場します。
しかし、彼は実は地球外知的生命体探査に憧れていたのではないかと思っています。
まず第一に、彼は劇中で電波信号の発信源が地球外知的生命体である可能性を一切否定していません。
むしろ電波信号をテレビに受信させ、画面が砂嵐状態になり「なんだこれは?」とみんなが困惑していたときなどは、さっそうと的確な助言をし、ヒトラーの映像であると解明したばかりでなく、その直前には電波信号を受信し続けるために外国の天文台に協力を頼んだ主人公の行動が、安全保障の担当者からとがめられた際には主人公をかばう発言までしています。
本当に地球外知的生命体に否定的な人物なのであれば、電波信号の報告があってもそんなの偶然だ、とかで一度くらい流してもよさそうです。
その後の展開でも彼は終始電波信号の解明を主導します。そのときの彼は非常にいきいきしていて、主人公の手柄を横取りするような行動も、はりきり過ぎてしまった結果に思えるほどです(言い過ぎか?)。
挙句には、地位を捨ててまで命の危険が伴う得体の知れない宇宙人に会えるところまで飛ばしてくれると思われる機械の乗組員に立候補する始末。
地球外知的生命体に会いたくて会いたくて仕方がないのだと見受けました。
本当に手柄を横取りしようとするほど地位や権力に固執する人物なら、わざわざ命を捨てる危険性を犯すわけがないと思うのです。
彼が乗組員に立候補した、と聞いたとき、僕は彼の地球外知的生命体に対する熱い思いを感じました。
このあたりって原作で描写されていたりするのでしょうか?
さて、乗組員の選考にあたり競争関係になった主人公とドラムリン。
最終的には神への信仰心を巡ってドラムリンに軍配が上がります。神を信じないとした主人公は人類の代表にふさわしくないと判断されたのです。
ドラムリンは神を信じるとしたために選考に通ったわけですが、このことについて主人公は「あんなの上辺だけだ」と愚痴ります。
今まで予算をカットされたり手柄を横取りされたりしたのに、その上最後の最後まで主人公を邪魔するわけですから当然です。
しかしその後、訓練中にドラムリンと主人公が会話を交わしたシーンでは、主人公がドラムリンに「おめでとう博士」と笑顔でさわやかに祝うなど、一見良い関係のように見えました。
これはいわゆる社交辞令的な対応だったのでしょうが、このときドラムリンは次の言葉を述べます。
エリー、君が不公平に思っているのは知っている。大いに不満かもしれん。私だって公平な世の中になればいいと思ってる。君が委員会で見せた誠実さが利用されない世の中にね。だがこれが現実だ。
エリーとは主人公です。不公平、不満というのは、先の乗組員選考委員会で、エリーは神について(信じていないと)正直に話したのに、嘘をついて神を信じると言った彼が受かったことについてでしょう。
上記の言葉に対しエリーはこう返します。
おかしいわ。私たちが決意すれば世界は変わるのに。
ドラムリンが言った「不公平な世の中」「正直者がバカを見る世の中」というのは、おそらく大半の人が毛嫌いしているはずです。
誰もが公平で正しい人が報われる世界を望んでいるでしょう。これはドラムリンも同じです。
しかしそんな世の中を作っているのはそれを毛嫌いし、公平で良い世界を望んでいるはずの人々自身なのです。
なんとも矛盾していますが、確かに現実はドラムリンのいうとおりです。
ここで、ドラムリンの立ち位置が見えてきます。
彼はそんな世の中の体現者なのです。心の中では良い世界を望みつつ、現実を前に自ら不公平に振る舞う。心の中と矛盾した行動をする。
対してエリーは違います。
彼女は良い世界を望んでいるので、自分が正しいと信じるままに行動しています。内なる思いと行動に矛盾が無いのです。
ドラムリンがエリーに世の中の不公平さを話したのは、自分はそんな世の中だから仕方なく嘘をついたのだと、責任を世の中に転嫁し自己正当化を図るためです。
しかしこれは見方を変えると、彼の内面は本当は公平な世界を望む「良い人」なのだとも解釈できます。実際「公平な世の中を望んでる」と言っています。
エリーは彼のその言葉によって、彼の中に善を望む「純粋さ」を見出したのです。だからこそ、あとはその善を望む意思を行動に変えるという「決意」だけだという意味で、「私たち(我々人々)が決意すれば変わるのに」と言ったのです。
さて、これを物語の本筋に照らし合わせてみると、次のようになると思います。
善を望む心=純粋な科学の心=未知に対する好奇心=地球外知的生命体への探究心
エリーは、善を望む心のままに行動しているので、地球外知的生命体への探究心に従い、様々な苦難を乗り越えて地球外知的生命体を信じて研究しています。
同様にドラムリンも、内に善を望む心を持っているわけですから、彼は地球外知的生命体への探求心を持っているということになります。
しかし彼は現実には不公平を実行しているわけですから、その行動は地球外知的生命体に対して否定的なのであり、やたら「現実的な」日常に役立つ科学を標榜するわけなのです。
このように考えると、やはりドラムリンは、実は地球外知的生命体に興味津々であり、それが我慢できなくなったので命を懸けて乗組員に立候補した説が濃厚だと思うわけです笑
おそらくエリーも、彼の熱い思いの一端を見出したからこそ、オペレーターとなり彼を補佐するなど、ドラムリンに協力的になったのだと思います。
特にドラムリンが過激派のテロで死ぬシーンでは、彼の死を嘆き悲しんでいるようにもみえます。
さて、この映画ではエリーの恋人的立ち位置である宗教家の男が登場します。
どちらかというとその男との関係の方を主軸に展開するのですが笑
ドラムリンが死んだ後、エリーが乗組員となり、北海道に建設してあった2台目のマシーンで彼女は遥か遠いベガへ行き、宇宙人が扮する死んだお父さんと砂浜でウインドサーフィンをして、宇宙人から重要な啓示を受けて帰ってきます。
が、なんと地球上ではマシーンが発射してから帰ってくるまでの間はほんの一瞬に過ぎず、人々からはエリーが話す体験は夢幻の嘘であるとされてしまいます。
エリーは途方に暮れるのですが、宗教家の彼氏はそんなエリーをエスコートし、マスコミから「彼女を信じますか?」と聞かれ、取り囲む群衆やマスコミにこう言い放ちます。
彼女とは科学と宗教という違いはあっても目指すものは同じ。真理の探究!
「真理の探究」これはこの映画の重要なテーマなのですが、しかし直後に続けて言います。
僕は彼女を信じる!
そう「信じる」。
これこそが実は重要なテーマの1つなのです。
エリー=善(地球外知的生命体を信じること)を信じること、そして実践(研究し続けること)すること。
これこそがこの映画の核心です。
「善を信じ、実践すること」
この言葉を発したのが宗教家であることはかなり示唆的だと思いませんか?
神を信じ、その教えを実践すること。
まさにこれと同じなのです。エリーのしていたことは。
だからこそエリーと彼は惹かれあったのです。
劇中でその宗教家、パーマーは「信仰の損失」という自身の著書についてのテレビに出演し、こう言っています。
確かに生活は便利になりました。しかしこれほど人々が孤立し孤独を感じている時代は他にありません。
我々は探しているのです、生きる意味を。
味気ない仕事、騒々しいだけのバケーション。
次から次へとカードで買い物をし、虚しさを紛らわそうとしている。
これは、実は宇宙人を信じているけど、世の中がそんな馬鹿なこと許さないから、宇宙人への探究心を捨て(信仰の損失)、味気ない「日常に役立つ科学」を標榜せざるを得ないドラムリンの心境を表しているかのようです!笑
このようにドラムリンは孤独な現代人の象徴なわけです。
彼は劇中で乗組員に立候補することにより宇宙人への探究心(信仰心)を取り戻すわけですが、そのせいで死んでしまいます。
つまりドラムリンは殉教したということなのです。
このドラムリンの死によって、エリーはドラムリンに代わって乗組員となり 、ベガで宇宙人から重要な啓示を受けます。
その啓示とは「人類は孤独ではない」。
更に、乗組員になったことによってパーマーとの関係も改善し、エリー自身も孤独ではなくなったわけです。
劇中の言葉にもあるように、彼女はずっと変人扱いされながら1人で研究していて、お父さんもお母さんもいない。孤独だったのです。
この映画のストーリーは、エリーが孤独から脱することでもあったのです。
そして、エリーが孤独から脱するためにはドラムリンの死が不可欠でした。
つまりエリーはドラムリンの殉教によって救われたのです!
このように、この映画におけるドラムリンは、決して悪役ではありません。
コンタクトに対する感想は結構見かけますが、ドラムリンに着目したものを見たことはなかったので書いてみました。
彼の名誉回復を祈ります笑
いわゆる地方分権について思うこと
これらの言葉がイメージするところは、要は明治以来の中央集権からの脱却で、政府の権限を地方自治体に委譲してそれぞれの地域に合った行政をしていきましょう、ぐらいかと思います。
もちろん裏には小さな政府志向で地方関連の国の歳出を削減したいという政治的思惑もあるのでしょうが、今は純粋な在り方としての地方分権を考えたいと思うのです。
僕も浅いながらも地方公務員としての勤務経験がありまして、地方分権一括法で担当事務の中に権限が委譲されたものがあり、それに伴う条例改正をやったことがあります(噴飯するほど取るに足らないものでしたが・・・)。
さて、地方分権議論の中で少し気になった話がありました。
それは「国の出先機関の廃止」というやつです。
行政の世界に興味ない方はピンとこないかもしれませんが、いわゆる「霞が関=中央省庁(文部科学省、国土交通省、厚生労働省など)」の多くは各地方に出先機関(事務所)を持っています。基本的には地方ブロック単位なので札幌市や福岡市、仙台市、広島市等に多いと思います。そこに勤務する職員はいわゆる国家公務員(○○省職員。ノンキャリが多い?)です。
彼らは国が行う事業を直接執行するためにいます。国が行う事業は色々ありますが、各種許認可、補助金、道路管理、森林管理等々です。ちなみに労基署や税務署もこの範疇に入ります。
このように様々な事業を遂行するために、出先機関が入居している合同庁舎というものは、場合によっては地元の県庁・市役所よりも巨大なビルだったりします。
それが「国の権限の巨大さ」の象徴のように見做されて、「地方分権の時代に国が地方に巨大な出先事務所を設けるとは何事だ」となるわけなのです。
でも国の出先機関が充実しているということは、国が自分の事業を執行までやるということなのであり、それは当然といえば当然なのです。
仮にいま国の出先機関を廃止するとしたら、それまで国の出先機関が担っていた事務を地元の役所がやるようになるわけですが、執行部分だけ委譲しても大元の法律、規則、基準、指針などは国が決めているので、地元の役所が国の出先機関に成り替わるだけになってしまいます。これは地方分権とは逆の現象です。
実際、僕もかつて文部科学省と関わりの深い部署にいたことがありますが、文部科学省は出先機関がないので、各地方で直接執行する必要のある文部科学省が決めた制度を担当することが多く、事実上国が作った制度の執行機関だな、と感じていました(自治体は本質的にそういうものだと言われればそれまでですが)。
ただし国が作る制度(補助金等)の多くは、制度上自治体が自らの意思で行う事業への助成というものになっています。とはいえ国がそのような制度を作ること自体、自治体へのプレッシャーになるので自治体の「やらされ感」は拭えないのです。
逆の視点からいうと、国がそのような自治体への助成制度を作らない限り、自治体は主体的に事業を行う意思も能力も財力も貧弱ということです。
たとえば、これはまた別の部署にいたときの話ですが、ある制度の一部分については自治体が定めることになっていたのですが、その内容は各自治体全く同じものだったりしました。これは国が示した参考のものを各自治体が丸々コピーしたからなのです。
このような事例は上げたら結構あるのではないかと思います。
しかしなぜこのようなことが起きるのかというと、各自治体が定めるような部分というのは大抵取るに足らない細々とした部分であって、各自治体ごとに違いを出す理由がないからなのです。むしろ違いを出してしまったら各自治体ごとに違った対応を要求される民間事業者や国民が困ることになってしまいますし、そもそも規則制定の際に問われる「なんでこうしたの?」にうまく答えられないからです。国の参考を丸写しすれば「国のを参考にしました」で済みます。これもまた、自治体の能力不足といえるでしょう。
ちなみに、前述した「噴飯するほど取るに足らないもの」とは、それまで国の規則で定められていたある「看板」の大きさを、自治体の条例で決めることができる、というものでした。
その条例の制定作業をやったのですが、素直に国の規則で決められていた文をそのまま当てはめたと思います。
僕がただ知らないだけなのかもしれませんが、 自治体への権限移譲の内実というのはこの程度のものが結構あります。
移譲されれば大きいものとしては許認可権限があると思います。最近では、沖縄県の辺野古移設に伴う岩礁破砕許可が知事の権限だったのでもめましたね。あれは珍しいケースだと思います。
実際、何か許認可が必要な場合、その許可を出す役所が市町村だろうが都道府県だろうが国だろうが、国民からしたらあまり関係ないんじゃないでしょうか?
むしろあの許可は市で、この許可は県で、でもこの範囲を超えると国の許可になって・・・なんて方が実害があるのでは?
地域ごとにちがっているべきものと全国統一的であるべきもの、市町村がやった方がいいもの、都道府県がやった方がいいもの、国がやった方がいいもの。
これらを考えて適切に分けるのってなかなか難しそうなんですよね・・・。
続くと思います。
僕の公務員試験体験談3
勉強内容ですが、僕は理系科目は捨てていました。なぜなら元々苦手だったので勉強した上で臨もうが適当にマークしようがそんなに得点は変わらないだろうと思ったからです笑
それに勉強時間が限られていますので「得点源にできるものを確実に得点源にする」という方針をとり、地歴公民の復習と専門科目の勉強に注力した方が、苦手な科目を克服するよりずっと効率がいいと判断したのです。
ちなみに公務員試験において重要な「数的処理」もほぼ捨てていました笑
それに限らず教養科目はあんまり勉強しませんでした。思い出すと、ほぼ専門科目を勉強していた記憶しかありません。
勉強方法という面でお話ししますと、これは結構後悔があります。
というのは僕の性格の問題なのですが、わからない問題があると根底から理解できるまで悩みまくっていたのです。
これはかなり時間の無駄でした。僕自身当時はピュアだったので笑、経済学にしても何にしても根底から理解したい、それでこそ真に勉強することであり、公務員として必要な知識なのだ、だから試験になっているんだと信じていたのです笑(このようなピュアな思いは実際公務員になると完膚なきまでに粉々になりました。この話はまたいずれ。)
なのでわからない問題があったら、すぐ答えを見て解法を丸暗記するのがいいでしょう。「なぜこうなのか」と考え込んでしまったらいくら時間があっても足りないのです。
お話ししたとおり、基本的にいくつか捨て科目があるわけですが、それでもなお得点するために有用な技術があります。
それは「公務員試験マル秘裏技大全」という本に書かれています。
要は外れ選択肢の特徴を見抜いて正解の選択肢を絞るというものなのですが、これは結構役に立ちます。捨て科目だけでなく得点源科目で迷ったときにも使えるので、公務員受験者必須の技術と言っていいでしょう。というより、公務員試験だけでなく他の色々な選択形式の試験にも応用できます。
筆記試験対策についてはこんな感じで行っていました。
面接対策は、民間の就職活動で代用したので特にしていません。確かグループ討論もありましたが、あたりさわりのないことを言っただけですので、「変な人を落とす試験」だったんだろうなあと思います。このあたりは自治体によって違うので事前によく確認しましょう。考えてみると、グループ討論でやたら仕切ってた人が落ちていましたね。
面接の内容は、開口一番「家族を紹介してください」でした。これ、正直本人の意思や能力とは関係ない上にプライベートなことなので、適切かどうかはかなり疑問です笑
ちなみに内定持ってるかどうかも聞かれたので素直に「民間から内定もらってます。だけどこちらが受かったら辞退します」と答えました。
面接試験も通ったあと、最後に「採用面接」がありましたが、これはもう形式上のものと思われ、面接官からニッコニコで「結果は安心してお待ちください」と言われました笑
ここまできたら心配することもないでしょう。
そんなこんなで公務員試験(地方上級)に受かったわけなのですが、偉そうに筆記試験対策を書いておいて筆記試験に受かったのは地方上級のみ笑
他の国家公務員試験は全部筆記試験で落ちました笑 これだけでもいかに僕が優秀でないか理解できるでしょう笑
それにしても試験会場のメガネ率が半端なく高く、正直「オタクばっかやなー!笑」と思わざるをえませんでした。でも合格者は男も女もそれなりにきちんと?している人ばかりでしたね。学歴がやたら高いのにもびっくりしました。
感覚的にいうとマーチ、旧帝が同じぐらいいて、駅弁がその次。ここまででほとんどだと思います。わずかに地元私大もいましたが。
長々書きましたけれども、はっきり言って偏差値50程度あれば、公務員試験は「勉強すれば受かる」試験だと思います。もちろん年によって倍率は異なるのですが・・・。
特に「やりたい仕事がない」ような人にとって公務員はオススメです。
なぜ「やりたい仕事がない」人に向いているかというと・・・、それはまた別の機会にお話ししましょう!笑
僕の公務員試験体験談2
僕が学生のころは秋ごろから民間の就職活動が始まっていました。なので今の事情に合うかどうかわかりませんが参考までに書きます。
前回の記事でも書いたとおり、僕は公務員試験勉強と民間の就職活動を並行して取り組みました。当時は、公務員試験を受ける人は就職活動はしないという人が多かったと思います(合格後、公務員の同期に聞いてもそのような人が多かったと記憶しています。)。
でも結果的には民間の就職活動もやってよかったなと感じますね。内定も取れましたし何より面接に慣れるので公務員試験の面接はまったく苦になりませんでした。公務員試験の面接は民間と比べればかなりぬるかったのです。
就職活動をやりながら公務員試験を受ける場合、勉強時間の確保がネックになると考える人が多いと思われますが、正直それはどうとでもなります。というか就職活動自体ほとんど企業との相性という面があると考えていたので、公務員試験勉強に差し支えるほど対策は取らなかったのです笑
僕の大学は地方にありましたので、就職活動のときは毎日のように片道2時間ぐらいかけて最寄りの都市に行っていました。
移動手段は電車でしたので参考書を持って行き電車の中で読んでいました。往復で4時間なので、この時間は結構大きかったように思います(帰りはほとんど寝てたような気がしますが笑)。
そんなこともあり、就職活動が始まる前と後で、勉強時間が減ったかというとそんなことはなかったのです。
さて、僕は大学3年の5月に勉強始めました。大学4年の6月に試験があったので勉強期間は約1年となります。
公務員試験に受かるためには、一般に1000〜1500時間の勉強時間が必要と言われているようですが、これはどういう学生を対象にしているのかよくわかりません。
仮に偏差値55くらいの学生を対象に、地方上級レベル(国家一般、専門職も同じ)に受かるということだとすれば結構妥当な数字だと思われます。
僕の場合に当てはめてみると、5月から11月までは1日2時間として2時間×30日×7カ月で420時間、12月から5月までは1日6時間として6時間×30日×6カ月で1080時間で、足すと1500時間となります。まあ実際は時折サボっていたと思うので笑、それを割り引くとおおよそ1300時間くらいにはなると思います。
というわけで実体験でも1000〜1500時間の勉強というのは妥当だと感じるわけです。
前にも書きましたが僕は決して成績は良くなかったので、「自分はそこそこ勉強できるぞ!」と思う方はもっともっと短い勉強時間で十分合格可能なのです。
続きます。
僕の公務員試験体験談
何年か前の話になりますが、僕が大学生のころ公務員試験(国I、国II、専門職、地上)に挑戦して合格(地方上級のみ笑)した記録を書こうと思います。もし公務員を目指している方がいたら参考になれば幸いです。
大学3年生のとき、そろそろ進路を決めなきゃなーと考えましたが、普通の民間企業に入って営業をするのは嫌だなと思っていました。いかんせんコミュ力が不足していましたので笑。
それに、利益のために仕事をするというのが性に合わない気がしたのです。当時は笑
そんなわけで、「これはもう公務員しかないな」と決心し、大学3年生の5月ぐらいから勉強を開始しましたが、合格する自信は正直あまりなかったので、民間の就職活動も並行してやることにして準備を進めました。
ちなみに僕が通っていた大学は、偏差値でいうと50以上60以下のところで、世間的にはそれほど高評価で通っているわけでもありませんでした。さらに参考情報を出しますと、僕は社会科が得意で、歴史と公民は偏差値60~65程度ありましたが、英語や数学は偏差値35~40程度でした笑。歴史公民は好きだったのでそれなりでしたが、正直言って僕は宿題をやったこともないし授業もまじめに聞いてなかったので、高校のときの成績はクラスで下から二番目でした!笑
こんな人間でもやれば公務員試験は受かるのです!笑
公務員試験は範囲が広いので、コンスタントに偏差値50~55程度とれる人なら僕よりは全然楽にいけるでしょう。
勉強スケジュールは、ほぼ「受かる勉強法落ちる勉強法」に沿って進めましたが、これは当たりでした。正直公務員試験なんて大抵が初めて挑戦するだろうし、そう何回も受けるものでもないのでこういったものを参考にした方が下手に自分で考えて進めるよりいいと思います。
使った参考書も全てこの本に従いました。買いそろえると結構量がある(数十センチは積みあがるくらいだったと思います。)ので、経済負担は少しありますが・・・。
一番重要な教材はやはり「過去問ゼミ」です。僕はこれを何度も繰り返し解きました。最低限でやるなら過去問ゼミを解きまくるのがいいでしょう。
勉強は、当初はやったりやらなかったり、やっても1日2時間程度でした。夏休みもかなりサボっていた記憶があります笑
でも12月くらいから心を入れ替えて一日6時間くらい勉強しました。そのくらいやれば元々の成績がそれほどよくなくても十分合格できます。
続きます。