日本の世界における位置について

近代以降の世界は、政治体制にしろ経済体制にろ科学技術にしろ、欧米世界がベースとなっています。

さらに、冷戦崩壊以後は、アングロサクソン(英語を母語とする民族)的価値観が世界の趨勢となり、言語も英語が世界標準となっています。

さらには産業革命の次なる転換点であったIT技術もアングロサクソン系のアメリカがリードし、現世界はもはや「アングロサクソンの時代」と言っていいでしょう。

 

このような中で、日本は一応先進国と認識されていますが、この「先進国」の肩書きを持つ国はどこになるでしょうか。

いろいろ定義はありますが、概ね一致するところでは西欧、北欧、米英加豪NZ、日本といったところかと思います。

 

しかしながら、世界情勢に影響を及ぼす力の大きさといった観点(大国かどうか)を含めると、次の国が「先進国かつ大国」の範疇に入るかと思われます。

すなち米英仏独伊日です。

これらの国は一人当たり名目GDPがだいたい3万ドルを超え、かつ人口五千万を超える国です。ついでにいうといずれも植民地支配を行った側の国であり、西側の国です。

韓国は近いうちに規模感としてはこの範疇に入りますが、19世紀から国際社会のプレーヤーであったこれらの国々の中で立ち回るには、まずはあらゆる分野での実績が必要となるでしょう。

 

ちなみになぜ植民地帝国が豊かで強いのかというと、支配を行った地域の富を奪うことができ、その富を国内資本として活用できたからです。

 

さて、近代以降から現在の世界は主に米英仏独伊日が目立つわけですけれど、この中にも力の序列が存在します。

序列が上の国から書きます。

 

まずアメリカ。

アメリカは「先進国かつ大国」の筆頭で、人口3億人、かつ国土も広く、今のところ敵なしでしょう。今後も世界で最も重要な国であることは間違いありません。

次はイギリス。

現在世界で支配的な政治形態(議会制民主主義)の元祖です。また、かつては世界一の植民地帝国であり、その富が集まったロンドンを抱えるため、金融分野についてはアメリカをも凌ぎます。

次はフランス。

イギリスとともに世界の覇権を争い植民地支配を広げ、惜しくも北米植民地をイギリスに渡してしまったために世界制覇は叶いませんでしたが、フランス語圏は広く、アングロサクソンに対抗し得る力を持ちます。

 

ここまでが先進国かつ大国「かつ戦勝国」です。

以下は先進国かつ大国かつ敗戦国で、保持していた植民地は狭く、近代までは政治的に地方勢力が力を持っており、近代化も多少遅れました。

そのため上記3カ国と比較すると、その国力は見劣りします。

 

ドイツ。

ドイツは 英仏と同じくらい先進性を持っていますが、近代まで地方勢力(小国)が分立していたために植民地獲得競争に出遅れました。

また、地方分権が強いため、ベルリン、フランクフルト、ボン等、有力都市が分立し、ロンドンやパリといった世界都市がありません。

近年はEUで存在感を高めており、また人口も八千万以上と多いため、英仏を凌駕する可能性があります。

しかしやはり大都市の不在でやや求心力が足りないかと思われます。

 

次にイタリアです。

ドイツと同様、国内分立の歴史が長く、近代まで統一されなかったために植民地獲得競争に遅れました。

やはりイタリアもローマ、ミラノトリノ等、都市の分立が目立ち、世界都市が不在です。

またイタリアでは南北格差が激しく、統一といった面でも不完全でありましょう。

 

イタリアと同率で日本です。

日本とイタリアが同順位というのはやや信じがたいと思います。たしかに現時点では日本の方に分があるでしょうが、長期的にはイタリアと同程度の国力に落ち着くと考えます。

 

日本は、他の先進大国と異なり西欧文明の国ではありません。また、近代化も遅れました。

現世界を支配し、先進的とされるのは西欧文明である以上、日本は欧米に追いつくことはできても追い越すことはできません。

欧米諸国は西欧文明を生み出した主体そのものですから、それを変化させ革新することもできますが、西欧文明を受容する立場の日本にはそれができません。

つまり世界が革新すればその度に突き離されてしまうのです。やがて長い時間をかけて追いついても、また革新が起きれば離されるのです。

 

IT技術はその典型で、アメリカという西欧文明国が生み出したものですから、やはり日本の受容は遅れています。

その点、イタリアは西欧文明そのものですので、受容は早いはずです。

科学技術や民主主義や資本主義が西欧文明と同一視されてしまった以上、非西欧は追従する立場から抜け出すことはできないのです。

 

ただ日本は、異なる文化を受容することには長けていたために非西欧国としては例外的な発展を遂げました。

これは、文化受容だけでなく、人口規模の大きさも寄与しています。

 

工業では、西欧を後追いし、そして肩を並べました。

しかしその間、IT技術等、西欧はさらなる飛躍を遂げましたが、やはりこの分野では日本の遅れが目立ちます。

日本は、FAXや手書き書類などの旧技術に固執していることから、すでにローテク国家と認識されつつあります。

 現在の日本の地位は、人口規模によって保たれているといって過言ではないのです。

 

残念ながら、この状況を打開することはできません。なぜなら日本人は西欧人ではなく、先進的西欧文明の受容には必ず抵抗があるからです。

日本みずから世界規模の革新をリードできれば話は違ってきますが、それほどの国力はありません。今後、世界に芽生える革新は全て西欧文明を土壌とするもので、他文明の影響は、あっても部分的なものにとどまります。

 

そのようなわけで、日本が先進大国であり続ける ためには、常に西欧から学び続けることが必須なのです。

 

 

 

 

 

なぜ苦痛が神聖だと考えるのか

世の中には、苦痛を進んで受けようとすることを美徳とする風潮が一部にあります。

たとえば、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というような、概ね「苦痛を耐えることで成長する」という主旨の教えです。

もちろん、技術の向上には努力が必要ですが、努力は苦痛とは限りません。努力が苦痛と感じたら、その技術には向いていないでしょう。

 

しかしこれを反転させ、苦痛こそ努力と思い込んでしまう場合があります。

これは、「苦痛が人を成長させる」という先入観があるからと考えます。

実際はもちろん、苦痛そのものではなく訓練が成長(技術の向上)させます。苦痛はあくまでも訓練に伴う副作用なのです。

しかし苦痛がない訓練は訓練と見なされないことが往々にしてあります。そのために苦痛を軽減したより効率的なやり方が拒絶されるのです。

「良薬は口に苦し」を信じ込み、たとえ同じ効能の甘い薬が開発されても、苦味がないと効く薬だと見なさないようなものです。

 

なぜ苦痛が重要視されてしまったのでしょうか?

僕はこれを仏教における「苦行」の信仰を引きずっているためと思います。

 

苦行は、仏教の祖先となった古代インド哲学の考えにその源があります。

その考えとは「自分とは何か」という思索から始まるのですが、要は「自分」とは「認識するもの」であって、色々な感覚(痛みや悲しみなどなど)は、「認識されるもの」であって「自分」とは切り離されたものである、というものです。

これが仏教に発展し、「痛みや悲しみにも左右されない心境になること」、つまり「解脱」として神聖な至るべき境地とされたのです。

 

この考えがどんどんあらぬ方向に展開し、「いかなる苦痛にも耐えることができる」ということが「解脱」していることの証左とされ、「苦痛に耐えること」が神聖なこととされてしまい、誰もが苦痛を求め、自分こそ解脱した者であると競い合ってしまったのです。

これが苦痛こそ神聖とされた理由なのです。

 

なお、この「苦痛耐久競争」は、ブッダにより「苦痛は何ももたらさない」と否定されます。

痛みから逃れようとすることや、悲しくて泣いてしまうこと、嫌なことがあって落ち込んでしまうこと、などの反応は、脳や身体機能の当然の反応であるとしました。

 

しかしながらこの「苦行」の信仰はブッダの意に反して脈々と受け継がれ、現代日本にもしっかりと根付いています。

 

彼らは苦痛(と一般的に考えられるもの)に耐えることが立派なことだと思っているので、楽をしている(ように見える)人を軽蔑します。

時には大したことないことも苦痛なことに見せかけますが、それが礼儀となっています。

相手も苦痛に耐えていると想定してやるのが礼儀なのです(お忙しいところすみませんが、と付けることや、大変ですねぇと労うことなど)。

 

日本の長時間労働や無駄に厳しい姿勢などは、このようにお互いが「苦痛に耐えている」と張り合うことにより強化、定着してしまったものと考えます。

 

もちろん、生きている限りは避けようのない副作用的な苦痛に耐える必要はあるのですけれども。

 

日本人はかつて本当に世界一豊かだったのか

バブル崩壊以降、日本経済は「失われた30年」とも言われる長期間の低迷に苦しんでいます。

 

以前、YouTube元号が平成になった瞬間のニュース映像を見ましたが、アナウンサーが「世界に誇る豊かな日本!」と叫んでいました。

今となってはそういう勢いはありません。

 

日本の名目GDPは90年代から変わっていません。

この間、諸外国はGDPを倍増させているので、日本の相対的な経済の大きさが急速に萎み、もはやかつての支配的な経済的地位から見事に転がり落ちました。

 

さて、今の話は国としての経済の大きさについてなので、中国のように国民がそれほど豊かでなくても、人口が多ければ経済大国 になります。

国民が豊かであるかどうかと、国としての経済の大きさは関係ありません。

 

かつて日本は豊かだったというのは、ドル換算の「一人当たり名目GDP」を念頭に置いているのではないかと思います。

 日本は、2000年にはこの尺度で世界第2位で、した。それが近年ではだいたい30位くらいです。

なぜこんなに下がったのでしょう。

 

日本は90年代後半以降、デフレが続いていたために名目GDPが大きくならなかったのが一番の原因ですが、ドル換算なのでドル円の為替レートにも大きく左右されます。

つまり経済が成長しなくても円高になればドル換算のGDPが増えるので順位が上がるのです。

また比較に使うのは名目GDPですので、インフレ率が高ければ、実質的に豊かになっていなくても数字上は高くなります。

なお実質GDPの方は、通常「経済成長率」を算出するときに使われますが、実質値は基準年を設定して、物価が基準年から変わらなかったものとして計る指標ですので、単純な額の大きさで比較することはあんまりありません。

 

さて、一人当たりGDP世界第2位だった2000年の日本は、世界で2番目に豊かだったのでしょうか?

それは否です。

一人当たりのGDPの大きさが世界で2番目だったのは事実ですが、それがそのまま豊かさを表しているわけではないのです。

 

国民の豊かさをもっと的確に表す指標があります。

それは「一人当たり購買力平価GDP」です。

これは国家間の物価の格差や為替レートを調整して算出するので、単純な名目GDPより正確に「生活水準」的な豊かさを表すことができます。

 

こちらの指標を用いると、2000年の日本の順位は26位で、今とあんまり変わりないのです。

1980年以降はだいたい20位前後から30位で推移しています。

 「日本人の生活水準」は、だいたいこの程度なのであり、「世界に誇る豊かな日本」は虚像だったのです。

 

とはいえ、90年代に比べると順位は10番程度下がっていますので全くふるわないのは明らかです。

また、名目GDPも低迷していることはそれはそれで問題なのですが。

 

なお、一人当たり購買力平価GDPで見ると、台湾にはとっくに突き放されており、韓国にはほぼ追いつかれています。

 

近代という世界史上「異常な時代」が過ぎ、概ね世界の近代化が完了したことで、近代以前同様ある意味「フラットな」世界に戻りつつあるのではないか、と思うのでありました。

 

 

 

 

 

 

地方公務員に向いている人とは

「地方公務員の仕事」にどんなイメージをお持ちでしょうか?

 

窓口で住民票を発行、許認可、助成金、徴税・・・などなど思いつくと思います。

 

僕はかつて地方公務員でしたのでその実態はそれなりにわかっているつもりです。

 

地方公務員の仕事は非常に多岐に渡り、生活のほぼ全ての分野を網羅しています。

政令市や都道府県レベルの役所だと、部署の数は300程度はあると思われますし、海外に事務所を持っている自治体もあります。

 

しかし非常に多彩な分野を対象にしている反面、実際の仕事内容はとても定型的です。

僕が以前の記事で「やりたい仕事がない人」が公務員に向いていると書いたのはそのためです。

 

実際の仕事内容とはなにか?

ざっくり言うと「お金の出し入れ」、「規則との照合」、「数字の確認」、「書類チェック」、「書類作成」と、こんなものです。

もちろん扱う規則や数字の名目は、担当分野によって異なりますが、言ってしまえば違いはそれだけなのです。

 

一般に、公務員は2〜3年で部署異動します。

多岐にわたる分野をほぼランダムに行き来しますので、その分野の専門知識なんて身につきません。水産課→税務課→教育委員会→福祉課→土木課→議会事務局などといった具合に異動し、前にいた部署の知識はほぼ役に立ちません。

その部署にいる職員は、全員その部署の経験が3年以下の素人集団なのです。

 

そんなに多岐にわたる分野を異動して仕事になるのか?と思われるかもしれませんが、仕事内容の内容は前述したように、名目は違えどやることは同じなので、まあなんとかなるのです。逆に言えば素人がやれるようなことしかやっていないのです。

作業内容自体は単純なのですが、ただ規則を調べたり、その数字がどうやって算出されているのか調べるのに時間が掛かったりコツが必要だったりします。

 

 

地方公務員になりたいと思っている人は、具体的に何をやりたいのでしょうか?

観光に携わりたい、経済を活性化させたい、福祉を充実させたい・・・など色々あるかと思います。

僕もありました。

 

だけれども、実際その分野に携われるのは、40年務めるとしてもたった3年です。もしかしたら全く携われないかもしれません。

しかもやることは非常に事務的で、政策立案は首長(政治家)がやるし、実際の専門的業務は外部に委託します。なので、観光部署に配置されてもやることは委託契約事務なのです。

 

なので明確に「これがやりたい!」という熱い思いを持っている人は期待外れな人生を送ることになるでしょう。

いかんせん僕がそうだったのですから。

僕は地域経済の活性化に携わりたいと思って公務員を目指し、大学時代もその分野の知識を培ったつもりでした。

でも実際はそんな知識なんていらないのです。

いってしまえば、公務員に必要な能力は「読み書き算数」これだけです。

 

そんなわけで、公務員に向いているのは「やりたいことがない人」ということになります。

さらにいえば数字合わせが好きな人や、細かい書類のチェックが好きな完璧主義な人が良いでしょう。

 

念のためですが、自分が言うのも変ですけれど、公務員になる人は非常に優秀で、何より真面目な人が多いです。

全く知識がない分野に配属されて、何言ってるかわからない問い合わせが来てもうまく受けられたり、嫌がらせと思うほどの書類チェックを日々こなしているわけですから。

 

それだけに、そんなに優秀な人に何も生み出さない書類チェックや機械的な作業を40年もやらせるのはとても大きな損失だと思うのです。

 

世の中の公共政策に対して熱い思いと能力を持ち合わせている人は、公務員よりも大学教授などの知識人を目指すことをオススメします。

いかんせん役所は素人集団なので、外部の有識者に意見を求めることがよくあります。

その方がよほど世の中に貢献できるでしょう。

 

公務員に限らず、日本の組織は専門的知識を持つ人を内部に置くことが嫌いのようです(いわゆるゼネラリスト的な人材を好む)。

 

僕としては、これが日本衰退の要因の一つだと考えます。

 

 

大きな物語と小さな物語

宗教的価値や政治的価値(イデオロギー)など、社会全体を覆い尽くし、その動向を左右するような信念を「大きな物語」とします。

対して、個人個人の人生に焦点を当てた、個人的な生活を「小さな物語」とします。

 

基本的にはどちらの物語も歴史上並立していました。

ただし、石器時代のような文明が登場する以前の大昔は、おそらく小さな物語しかなかったでしょう。

文明が芽生え社会が形成されてくると「宗教」という、個人個人の間柄を超える大きな価値観が発生します(大きな物語)。

この大きな物語は、近代に入ると政治的価値や思想(イデオロギー)に置き換えられます。

 

イデオロギーの時代は、市民革命、共産主義帝国主義ファシズムなどが登場し、冷戦を経て国民国家・資本主義・自由民主主義が生き残りました。

 

このような「大きな物語」は、冷戦終結後、急速にその力を失います。特に先進国において顕著です。

「力」とは、損得抜きに個人をその物語の実現のために突き動かす力です。

かつては、宗教の教え、共産主義革命、自由、そして国家のために人々は死をも厭いませんでしたが、現在、それらのために個人を犠牲にできる人はだいぶ少ないでしょう。

それはもはや、人々が「大きな物語」を信じなくなっているからです。

 

人が自分の損得を超えた信念に突き動かされていたのはなぜでしょう?

思うに、その信念(物語)に「神聖さ」を感じていたからではないでしょうか。

宗教にしても共産主義にしても自由にしても、それが実現すれば理屈抜きに「自分は救われる」と信じていたのです。

宗教については、神を信じれば病気や災害等の厄災から守られると信じていたし、政治思想であれば、それが実現すれば豊かになれると信じていた。

自分を救ってくれるものは神々しいものであり、神聖なのです。

 

さらには、そのような「神聖なもの」のために己を犠牲にすることもまた神聖なのであり、名誉なこととされたので、仮に厄災から守られず、豊かにならなくても己を犠牲にするだけでその名誉によって救われたのです。

 

しかし時間が経つにつれて、いくら神を信じても、どんな政治体制が実現しても救われないどころか、そのために多くの人が無意味に死んでしまったと判明したために、それらの神聖さが失われ、人々はもう自分を犠牲にすることはなくなったわけです。

 

 

宗教がその神聖さを失い始めたは近代で、ヨーロッパを基準にすると18世紀後半頃、政治が神聖さを失ったのは、20世紀後半と考えます(冷戦終結が大きく影響しているでしょう)。

 

宗教はその形を道徳や形式的儀式に変え、政治は実生活のために利便を設計・提供するものに変わりました。

この変化は、人々が「大きな物語」に失望し、個人的な生活(小さな物語)を、重視し始めたことによります。

ただ、宗教については神を信じることで悲しみや悩みを解決する面があるために、国民国家・資本主義・自由民主主義については、それ以外の政治体制よりマシなので、まだある程度神聖さを保っていると思われます。しかしながら、特に後者は所得格差の拡大などによって近年徐々に色褪せつつあるでしょう。

 

この話は会社組織にも当てはまると思います。

かつては会社のために「つらい仕事を耐えること」は賞賛の対象であり名誉なことでしたが、近年ではそれに価値は見出されなくなりました。

その理由も「大きな物語」の崩壊によるものと思われますが、その話はまた書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

地方分権の形と意識

さて、以前地方分権について思うところをちょろっと書いたのですが、その続きを。

 

この国の行政は、国、都道府県、市町村という3層構造になっています。

多くの事務の場合、国が基本指針を決め、それに則り各自治体が具体の計画を定めて実施します。計画策定や実施主体が、都道府県なのか市町村なのかはその事務により異なりますが、概ねこんなものです。

お金が絡む助成事業の場合も、多くは国のお金が1/2とか1/3の割合で入っていて、都道府県や市町村の単独事業というのは、あっても小規模なものや補完的なものなのです。

 

つまり今の行政は、地方分権といって権限を委譲しても根幹には国の方針があるため、実態としては自治体が国の出先機関の役割を果たすようになるに過ぎないのです。

財源についても、現状では自治体は自主財源が少なく、何か事業を行おうとすると国からの補助がなければ厳しいです。

 

僕もかつて自治体で働いていたとき、自治体の自主財源(一般財源)を使ういくつかの事業を新しく行おうとしたことがあるのですが、極めて難しかったです。というか無理でした。

財政部署があの手この手で次から次へと資料を要求し、最終的には挫折に追い込むのです。

もちろん彼らも上に説明しなければならないので厳しくなるのでしょうが・・・。

要求される側としては、ほとんど嫌がらせのように感じました。

 

逆に言えば自治体の財政力というのはそのくらいなのです。

ちなみに、自治体固有の財源とされ、使い道が限定されない一般財源として扱われるとされる「地方交付税交付金」ですが、実際はそうでもないケースもあります。

この交付金は国が各自治体で必要な経費を算出して交付金額を弾き出します。

つまり積算で使用した「想定される使途」があるのです。

なので、財政部署から「あなたがやろうとしている事業に係る経費が地方交付税交付金に含まれているか調べなさい。なければ却下」と言われたり、「現状でこの事業経費に係る交付金の上限を使っているので、これ以上の事業拡大は無理」と言われたりするのです。

 

基本姿勢が「自治体の方針や考え方に合わせて事業を行う」ではなく「国がお金を出してくれる(国がそれを行うことを認めている)から、事業を行う」というものなのです。

 

これでは本当に自治体は国の出先機関と変わらないように思いませんか。

というか、長い中央集権の歴史で、機関委任事務など、本当に国の出先機関としての役割を長い間果たしていた自治体は、その体制も考え方もすっかりそれに染まってしまっているのです。

 

とはいえ、このような現状のおかげで、日本全国ある程度均質な行政が実施されているという面もあるのですが。

 

仮に国から自治体に財源を委譲しまくり、完全に自治体の自主財源のみで行政を行うようにすると、大都市と地方で激しい格差が生じてしまうでしょう。

 

要はバランスなのですが、どのくらいが良いのかという議論は正直難しいです。

 

僕個人としては、自治体職員がもう少し自治の意識を持った方がいいのかなと思います(僕が勤めていたときのことしか知らないのですが)。現状の権限と財源に比して、自治体職員の自治の意識は低いと思います。地方分権の形が先行して、意識が追いついていないのです。

 

しかし自治を行うには自治体職員の能力に問題があります。

現状だと、仮に自治体にいくら権限と財源があっても良質な行政を行うことはできないでしょう。

むしろ国の庇護が薄くなることにより劣化すると思います。

 

自治体職員の能力の問題については、また書きたいと思います。

 

 

映画「コンタクト」感想

映画「コンタクト」は、1997年のアメリカ映画で、僕が大好きな映画の1つです。

なお原作は読んでいません。

 

以下、ネタバレ注意です。

 

 

 

 

ジャンルとしてはSFなのですが、スターウォーズのようなガチガチのSFといった感じではなく、舞台は同時期のアメリカです。

1977年の「Wow!シグナル」という現実に起きた地球外知的生命体探査での出来事を元ネタとしているようです。

 

あらすじとしては、ざっくりいうと、女性天文学者が地球外知的生命体探査を行っていたときに強い電波信号を探知し、その信号を解析していくと、ある機械の設計図であることがわかり・・・というものです。

 

さて、このコンタクトですがその魅力は「現実で同じことが起こったらこんな感じだろうなあ」と思わせるリアル感だと思います。

実際、当時のクリントン大統領を映像技術を駆使して登場させていました。

 

また、秘密を解き明かす系の展開でありそうな陰謀のようなものもなく、国家から排除されてピンチに陥る・・・なんてこともありません。

むしろ、国のお偉いさんが「何かあったら大統領が判断します。ただしあなたのプロジェクトであることを鑑み、引き続きチームの指揮にあたってください」的な、現実にありそうな、いかにも政治らしい周囲に配慮したことを言ったりします。

 

ただ惜しかったのは最後に出てくる謎日本です。

電波信号を解析して、そこに書かれていた設計図を基に作り上げた機械が過激派によって壊されてしまい、計画頓挫と思われた矢先、実は北海道に2台目を建設していた、という経緯で主人公が北海道に行くのですが、なぜか部屋には鏡餅、主人公は白装束という、全く雰囲気に合わないステレオタイプな日本が登場するのです。

正直その直後の恋人とのシーンは盛り下がりましたね。

しかも登場する日本人もやたら機械的で、なぜか「H」のマークをあしらったヘルメットを被っていました。北海道庁の職員なのでしょうか?笑

 

とはいえ、気になったのはこの点だけで全体で見ると素晴らしいことは変わりありません。

 

特に僕が興味深いなと思った登場人物は、主人公の元ボス?であり、大統領の科学顧問兼科学技術財団のトップであるドラムリン博士です。

 

彼は主人公の科学への思い、特に地球外知的生命体探査に否定的で、科学は日常に役立つべきだと主張します。

そのため主人公たちが取り掛かっていたプロジェクトへの予算をカットし、彼らを路頭に迷わせたかと思いきや、電波信号を発見するとその手柄を自分のものにするなど、典型的な悪者として登場します。

 

しかし、彼は実は地球外知的生命体探査に憧れていたのではないかと思っています。

 

まず第一に、彼は劇中で電波信号の発信源が地球外知的生命体である可能性を一切否定していません。

むしろ電波信号をテレビに受信させ、画面が砂嵐状態になり「なんだこれは?」とみんなが困惑していたときなどは、さっそうと的確な助言をし、ヒトラーの映像であると解明したばかりでなく、その直前には電波信号を受信し続けるために外国の天文台に協力を頼んだ主人公の行動が、安全保障の担当者からとがめられた際には主人公をかばう発言までしています。

本当に地球外知的生命体に否定的な人物なのであれば、電波信号の報告があってもそんなの偶然だ、とかで一度くらい流してもよさそうです。

 

その後の展開でも彼は終始電波信号の解明を主導します。そのときの彼は非常にいきいきしていて、主人公の手柄を横取りするような行動も、はりきり過ぎてしまった結果に思えるほどです(言い過ぎか?)。

 

挙句には、地位を捨ててまで命の危険が伴う得体の知れない宇宙人に会えるところまで飛ばしてくれると思われる機械の乗組員に立候補する始末。

地球外知的生命体に会いたくて会いたくて仕方がないのだと見受けました。

 

本当に手柄を横取りしようとするほど地位や権力に固執する人物なら、わざわざ命を捨てる危険性を犯すわけがないと思うのです。

彼が乗組員に立候補した、と聞いたとき、僕は彼の地球外知的生命体に対する熱い思いを感じました。

 

このあたりって原作で描写されていたりするのでしょうか?

 

さて、乗組員の選考にあたり競争関係になった主人公とドラムリン

最終的には神への信仰心を巡ってドラムリンに軍配が上がります。神を信じないとした主人公は人類の代表にふさわしくないと判断されたのです。

ドラムリンは神を信じるとしたために選考に通ったわけですが、このことについて主人公は「あんなの上辺だけだ」と愚痴ります。

今まで予算をカットされたり手柄を横取りされたりしたのに、その上最後の最後まで主人公を邪魔するわけですから当然です。

 

しかしその後、訓練中にドラムリンと主人公が会話を交わしたシーンでは、主人公がドラムリンに「おめでとう博士」と笑顔でさわやかに祝うなど、一見良い関係のように見えました。

これはいわゆる社交辞令的な対応だったのでしょうが、このときドラムリンは次の言葉を述べます。

 

エリー、君が不公平に思っているのは知っている。大いに不満かもしれん。私だって公平な世の中になればいいと思ってる。君が委員会で見せた誠実さが利用されない世の中にね。だがこれが現実だ。

 

エリーとは主人公です。不公平、不満というのは、先の乗組員選考委員会で、エリーは神について(信じていないと)正直に話したのに、嘘をついて神を信じると言った彼が受かったことについてでしょう。

 

上記の言葉に対しエリーはこう返します。

 

おかしいわ。私たちが決意すれば世界は変わるのに。

 

ドラムリンが言った「不公平な世の中」「正直者がバカを見る世の中」というのは、おそらく大半の人が毛嫌いしているはずです。

誰もが公平で正しい人が報われる世界を望んでいるでしょう。これはドラムリンも同じです。

 

しかしそんな世の中を作っているのはそれを毛嫌いし、公平で良い世界を望んでいるはずの人々自身なのです。

なんとも矛盾していますが、確かに現実はドラムリンのいうとおりです。

ここで、ドラムリンの立ち位置が見えてきます。

 

彼はそんな世の中の体現者なのです。心の中では良い世界を望みつつ、現実を前に自ら不公平に振る舞う。心の中と矛盾した行動をする。

 

対してエリーは違います。

彼女は良い世界を望んでいるので、自分が正しいと信じるままに行動しています。内なる思いと行動に矛盾が無いのです。

 

ドラムリンがエリーに世の中の不公平さを話したのは、自分はそんな世の中だから仕方なく嘘をついたのだと、責任を世の中に転嫁し自己正当化を図るためです。

しかしこれは見方を変えると、彼の内面は本当は公平な世界を望む「良い人」なのだとも解釈できます。実際「公平な世の中を望んでる」と言っています。

エリーは彼のその言葉によって、彼の中に善を望む「純粋さ」を見出したのです。だからこそ、あとはその善を望む意思を行動に変えるという「決意」だけだという意味で、「私たち(我々人々)が決意すれば変わるのに」と言ったのです。

 

さて、これを物語の本筋に照らし合わせてみると、次のようになると思います。

 

善を望む心=純粋な科学の心=未知に対する好奇心=地球外知的生命体への探究心

 

エリーは、善を望む心のままに行動しているので、地球外知的生命体への探究心に従い、様々な苦難を乗り越えて地球外知的生命体を信じて研究しています。

 

同様にドラムリンも、内に善を望む心を持っているわけですから、彼は地球外知的生命体への探求心を持っているということになります。

 

しかし彼は現実には不公平を実行しているわけですから、その行動は地球外知的生命体に対して否定的なのであり、やたら「現実的な」日常に役立つ科学を標榜するわけなのです。

 

このように考えると、やはりドラムリンは、実は地球外知的生命体に興味津々であり、それが我慢できなくなったので命を懸けて乗組員に立候補した説が濃厚だと思うわけです笑

 

おそらくエリーも、彼の熱い思いの一端を見出したからこそ、オペレーターとなり彼を補佐するなど、ドラムリンに協力的になったのだと思います。

特にドラムリンが過激派のテロで死ぬシーンでは、彼の死を嘆き悲しんでいるようにもみえます。

 

さて、この映画ではエリーの恋人的立ち位置である宗教家の男が登場します。

どちらかというとその男との関係の方を主軸に展開するのですが笑

 

ドラムリンが死んだ後、エリーが乗組員となり、北海道に建設してあった2台目のマシーンで彼女は遥か遠いベガへ行き、宇宙人が扮する死んだお父さんと砂浜でウインドサーフィンをして、宇宙人から重要な啓示を受けて帰ってきます。

 

が、なんと地球上ではマシーンが発射してから帰ってくるまでの間はほんの一瞬に過ぎず、人々からはエリーが話す体験は夢幻の嘘であるとされてしまいます。

 

エリーは途方に暮れるのですが、宗教家の彼氏はそんなエリーをエスコートし、マスコミから「彼女を信じますか?」と聞かれ、取り囲む群衆やマスコミにこう言い放ちます。 

 

 

彼女とは科学と宗教という違いはあっても目指すものは同じ。真理の探究!

 

 

「真理の探究」これはこの映画の重要なテーマなのですが、しかし直後に続けて言います。

 

 

僕は彼女を信じる!

 

 

そう「信じる」。

これこそが実は重要なテーマの1つなのです。

 

エリー=善(地球外知的生命体を信じること)を信じること、そして実践(研究し続けること)すること。

これこそがこの映画の核心です。

 

「善を信じ、実践すること」

この言葉を発したのが宗教家であることはかなり示唆的だと思いませんか?

 

神を信じ、その教えを実践すること。

 

まさにこれと同じなのです。エリーのしていたことは。

だからこそエリーと彼は惹かれあったのです。

 

劇中でその宗教家、パーマーは「信仰の損失」という自身の著書についてのテレビに出演し、こう言っています。

 

 

確かに生活は便利になりました。しかしこれほど人々が孤立し孤独を感じている時代は他にありません。

我々は探しているのです、生きる意味を。

味気ない仕事、騒々しいだけのバケーション。

次から次へとカードで買い物をし、虚しさを紛らわそうとしている。

 

 

 これは、実は宇宙人を信じているけど、世の中がそんな馬鹿なこと許さないから、宇宙人への探究心を捨て(信仰の損失)、味気ない「日常に役立つ科学」を標榜せざるを得ないドラムリンの心境を表しているかのようです!笑

 

このようにドラムリンは孤独な現代人の象徴なわけです。

彼は劇中で乗組員に立候補することにより宇宙人への探究心(信仰心)を取り戻すわけですが、そのせいで死んでしまいます。

つまりドラムリンは殉教したということなのです。

 

このドラムリンの死によって、エリーはドラムリンに代わって乗組員となり 、ベガで宇宙人から重要な啓示を受けます。

その啓示とは「人類は孤独ではない」。

更に、乗組員になったことによってパーマーとの関係も改善し、エリー自身も孤独ではなくなったわけです。

劇中の言葉にもあるように、彼女はずっと変人扱いされながら1人で研究していて、お父さんもお母さんもいない。孤独だったのです。

 

この映画のストーリーは、エリーが孤独から脱することでもあったのです。

 

そして、エリーが孤独から脱するためにはドラムリンの死が不可欠でした。

つまりエリーはドラムリンの殉教によって救われたのです!

 

このように、この映画におけるドラムリンは、決して悪役ではありません。

コンタクトに対する感想は結構見かけますが、ドラムリンに着目したものを見たことはなかったので書いてみました。

彼の名誉回復を祈ります笑